こんばんはDJあおいです
読者さんからこんな相談をいただきましたよ
お悩み
いつもブログ拝読させていただいています。数年前、辛くて仕方なかった時に、生きるヒントが見つかればと、ネットサーフィンして、このブログを見つけた時から、ずっとファンです。いつもありがとうございます。
取り留めもなく書く乱文ゆえ、読みにくいと思いますが、目に留めてもらえたら嬉しいです。
私は暴行を受けた妊婦です。警察や地域のDV相談センターに相談したら、かえってきた返答は、どれも「あなたが加害者から距離を置きなさい。」でした。正しいと思う反面、何故被害者側が行動を起こさなければならないのかと疑問に思いました。加害者側が、これ以上被害者に近づかないよう、もう2度と同じことをしないよう、何か行動するべきではないのかなと思いました。なんで被害者が、逃げるように生き、自由を制約され、加害者はこれまで通り暮らせるのか。よくイジメの時にも、加害者はこれまで通り教室でみんなと過ごし、被害者は別室で1人のような対応をされていますよね。
若輩者の私には世の中の常が、理解できません。これが普通なのでしょうね。。。

被害者が『逃げる側』に回らなければならないというこの社会の構図は
倫理の根幹がどこかでねじれている証拠のように思えます
暴力を振るったのは加害者なのに
被害者が引っ越し、職を変え、生活圏を断ち切り、自由を制限される
この構造は、単なる制度の問題ではなく
社会全体の価値観が『秩序の維持』を『正義の実現』よりも優先していることの現れではないでしょうか
行政や警察の『距離を取りなさい』という助言は、確かに現実的な安全策です
しかし、それは同時に、社会が『加害者を変える力を持たない』という前提の上に成り立っています
つまり、暴力の根を断つのではなく
被害を受けた者を空間的に移動させることで
見えない場所に押しやってしまう
『安全』と引き換えに、『存在の居場所』を奪う行為とも言えます
哲学的に言えば、これは『社会的暴力の再生産』です
物理的な暴力が終わっても、構造としての暴力が続く
それは法の不備や制度の問題だけでなく
私たち一人ひとりの『見たくないものを遠ざける心理』からも生まれています
被害者に『逃げろ』と言う社会は
加害者の行為を直視する勇気を失っている社会です
そしてそれは、暴力を個人の問題に矮小化し
共同体としての責任を放棄しているという意味でもあります
暴力の根幹は、支配と沈黙の中にあります
被害者が沈黙させられ、加害者が『普通の生活』を取り戻すとき
社会は見かけ上の平穏を手に入れる
しかしその平穏は、誰かの犠牲の上に成り立つ脆い安定でしかありません
真の平穏とは、暴力を可視化し、責任を明確にし、構造を変えることによってしか得られないはずです
あなたが感じた『なぜ被害者が逃げなければならないのか』という問いは
被害者としての叫びであると同時に、この社会の倫理に対する鋭い問いかけでもあります
それは、弱さや被害の中からしか生まれない、最も純粋で汚れない疑問です
この問いがいつか、制度や意識を動かすほどの力を持つことを、私は祈っています
以上
DJあおいでした
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