こんばんはDJあおいです
読者さんからこんな相談をいただきましたよ
お悩み
あおいさんこんにちは。いつもブログを楽しみにしています。
「人を許す」と言うことが難しいので、相談させてください。
そして、許すことに関して、幼い頃から母親と意見が合わないのでそのことも相談したいです。
私はもうアラサーにも関わらず、程度にもよりますが何か嫌なことをされた時、人を許すと言うことが感覚的にわからないし難しいです。自分も許されて生きていると言うのに。
見限ることなら何度もしてきました。言及されないことを「許された」と感じているであろうボケもたくさんいました。
自分が損な生き方をしている感じがしますが、人を許せないです。
許さないと思っているのが雰囲気で出ているせいか、何かされても謝られることがないです。相手に非がある時、バツの悪そうな顔をするか開き直る、逆ギレする人間がほぼ大半で、謝罪されることはほぼないです。
大人しく内向的、繊細そうと言われる私ですが、切ろうと思った人間関係は徹底的にぶった切ってきて、切れなかった相手は今のところ0です。人間関係は繋ぎ止める、構築する方が労力を要するし、何もしなくても疎遠になったり忘れたりするので、切るのなんて簡単だと思います。
「許してあげてよ・・・」と周囲の人に言われることがあります。
「切る」ことしかできない自分の無力さを感じます。自分が失ったり傷ついたことものに比べたら相手が被る被害が「人生から私がいなくなる」なんて甘過ぎるとすら思っています。
仕返しとかする趣味はありません。怒ってる自分が好きじゃないので怒ることもないです。本気で嫌だと思ったらただ縁切ってます。
幼少期、私の母親が、よく私に「許してあげて」と言いました。
何もしていないのに勘違いで父親に怒鳴られたとき、なんのアフターケアやフォローもなくバツの悪そうな顔をするばかりの父親に話かけてもダンマリ決め込まれていたので母親に文句を言ったら「正義を振り翳すな」と母親に叱られました。
学校でいじめにあったのですが、そのままエスカレーター式に中学に上がるにつれ、いじめはなくなりましたがいじめの主犯を避け続け必要最低限の会話で済ませている私を見て母親が、「許してあげたらよかったね」と言いました。
クラスメイトと当時の彼氏に「ブス」と言われたと母親に言ったら、母親は爆笑していて、その瞬間、母親に対する信頼が薄れていきました。もうこの人に期待するのはやめようと思ってしまいました。
また、私にお金をたかった上級生がいて、そのことが相手の親に伝わり、謝罪とお金を返しに、親子で私の家まで謝りに来た時、私ではなく母親に謝罪する相手の親と、私より先に「いいですよ」と許す母親を見て憎悪が何倍にも膨れ上がったのを今でも覚えていて、自分でも引くんですがその件を今でも許していません。だからと言ってその怒りで傷ついたり疲れるのは自分なので、自分がただ損だと思います。
20歳くらいの時に、「私は自分の気持ちを受け止めてもらう前に許すことを要求されるのは嫌だよ」「いろんなことが今でも悲しいままだよ」と母親に伝えました。
「あんたそれ(悩んだり怒ったりすること)趣味だね」と笑われました。
母親は笑い療法士になるんだと意気込んでいて、人生なんでも笑い飛ばさなきゃ!みたいな感じです。私はそうは思いません。悲しい時に笑ったら壊れると思うので悲しい時は悲しんだ方がいいと思います。必要以上に人を責め続けたり、集団でハブにするとか、怒りをぶつけ続けるのも違うと思うので、それもどうかと思いますが、どうも生きていると自分の気持ちが他者の都合で踏み躙られたり無視されたり逆ギレされるように思います。
その原因として、相談文の前半にも書いたように、「許さないと思っているのが雰囲気で出ている」自分のせいだと思います。許してもらえなさそうな人には誰でも謝りづらいと思います。
人は変えられないし、私は舐められやすいし、母親と性格が合わないし、長年蓄積した怒りで体の節々が痛くなってきました。許すことができない自分のせいです。人のせいにしそうになります。誰に何をされても、一緒になって母が泣いたり怒ったりしてくれたらよかったのにとか思います。母親は一貫して、私が「今日はこんなことがあって悲しかったよ」と言うと間髪入れず「許してあげなさい」みたいな感じで、最終そこに辿り着きたいけどいきなり直結して許すフェーズに行くのは難しいな・・・と思います。
私は体力がないのと争いとか不毛に感じるので、反発とか反抗とかしないんですけど、どうにも母親の方向性に賛同できないと言うことで、反論とか疲れるだけなので距離を置いています。
母親の方が、「今日私こんなことがあってね」「こんな知り合いがいてね」とマシンガンのように自分の話をするので基本的に私のターンが存在せず、また私が「こんなことがあって悲しかった」というと爆笑し始めるので母親がよくわかりません。
幼い頃から「許す」ことで自分の存在が消えるような思いをしてきました。「許さない」と言う気持ちは「私がここにいる」と言う叫びで、私がここにいるなんてこと周囲の人はみんな知ってるんだから、別にもういいから手放したいです。許せないのは、「私の存在を無視しないで」っていう叫びだと思っていて、このままでは器の小さいおばさんになってしまいます。どうしたら、優しい人になれますか。誰に何をされても自分で自分の存在を祝福できていたのならそこまで人に憎悪を抱いたりしないのでしょうか?
長文で申し訳ないです。アドバイスを頂けたら嬉しいです。

相談者様の文章で印象的だったのは
『許さない』という行為が『自分の存在を確認する手段』になっている、という点です
幼少期に母親から『許せ』と言われてきた経験
父親や周囲に理不尽な扱いを受けたのに母親がそれを軽んじる
自分の感情や存在が踏みにじられる経験
これらが積み重なり、『許す=自分の存在を消すこと』という認識につながっています
『許す』とは、相手の行動を正当化することではなく
自分がその経験に縛られずに生きるためのプロセスです
許すのは相手のためではなく、自分の心の自由のため
許さなくてもいい
ただし、許さないことで自分の心が消耗する場合は別の方法で心を守る必要がある
『見限る』ことも立派な自己防衛であり、許すことの代替になり得る
相談者様は既に『切る』という手段を確立しており、それ自体が自己防衛になっています
だから『許せない自分=器が小さい』という捉え方は、少し厳しすぎるかもしれません
母親のスタンスが『悲しみを笑いで飛ばす』という方針だったことが
相談者さんの感情処理に大きく影響しています
悲しみや怒りを表現しても受け止めてもらえない
『許せ』と言われることで、自分の感情や存在が否定される
これは、許せない自分の心理の根本になっています
母親との関係は変わらなくても
自分自身の内面で母親の影響を理解して切り離す作業は可能です
相談者様が『優しい人になりたい』と感じる背景には
社会的な圧力や『自分は冷たい』と思う気持ちがあります
しかしここで考えたいのは
優しさは、他人を許すことだけで成立するものではない
自分の存在を尊重しながら生きられることも優しさの一部
誰かに怒りや憎悪を感じること自体は、人間として生理的なこと
ですので、『許す=優しい人』『許さない=器が小さい』と自己評価する必要はありません
優しさとは、他人を無条件で許すことではなく
自分を大切にできることでもあります
そして、自分の存在や感情を守る行動は
誰かに迷惑をかけるものではなく、健全な生き方です
悲しみを笑いで吹き飛ばすことはできません
悲しみを癒やすことができるのは
悲しみ尽くすことだけですからね
以上
DJあおいでした
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